最近は、雨が続く。


現実的というか実務的というか、
とにかく僕の実存とは全く関係の無いところでモノゴトが動いていく毎日にあって、
まぁ、それはそれで充実してはいるんだけれど、
まぁ、それが所謂"大人になる"ということなのかなぁとか思ったりもするんだけど、
まぁ、それなりにうまくこなせているとは思うんだけど、
なんというか。


なんというか、
あのころ感じていた漠然とした未来への希望みたいなものはないよなあ、
などとふと思う。
ヴィジョンと目標と具体的な努力。
ヴィジョンと目標と具体的な努力。
年齢と責任。
年齢と家庭。
余命60年。
うむ。


とりあえず、シャツにアイロンをかけないと。
とりあえず、家賃を払わないと。
とりあえず、出かけないと。
まぁ、とりあえず。


それで ぼく も
風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて
蒼空を翔けたいんです
蒼空を


- 風をあつめて / はっぴいえんど


最近になって諦めなければならないモノの幾つかが見えてきたような気がする。
そして同時に「手に入れることのできたかもしれなかった将来」に対して反実仮想的な寂寥感を抱かずにはいられないでいる。


どうしてこうも生きにくいのだろうかと考える。
僕のできないことは、他の誰かがうまくこなしてくれる。僕のできることは、他の誰かがよりうまくこなしてくれる。
それでもなお上を目指す人、必要としてくれる人の間でそれなりに生きる人、結局誰からも必要とされない人、何も考えていない人。


ありふれた人間のありふれた悩み。
僕もまた凡庸な人間のひとりである、ただそれだけのことなのだけれど、少し寂しい。
でもそういうものなんだろうとも思う。


あるモノを諦めて別の何かを選び取る。
すべてのモノを掬い上げる必要はない。
自分の欲求に素直になった先に現れるであろう何かに期待してみよう。
空からカエルが降ることを期待してみよう。
屍となった未来に押しつぶされてしまわないように。

昨日の天気も思い出せないくらいに煩雑な思考状態にあって、Googleカレンダーによってのみ規定されている日常生活に身を置いているわけだけれど、その割には大したアウトプットもできない自分に苦い思いをしている。twitter上では、何時だって<空中戦>が繰り広げられており、世の中には頭のいい人がいるもんだなあと必要以上に落ち込んでいる。
寒い。昨日の夜の天気予報では最低気温は−8℃との予報がされていたけれど本当だろうか。ここ数日の天気が思い出せない。
この間ソウルと上海に行ってきたけれど、その時も天気が良くなかった。ソウルは大粒の雪が降っていたし、上海は終始霧に覆われていた。特に万博に向けて都市整備を進めている上海は、低く垂れこめた霧や層雲のせいか発展途上なのか崩壊前夜なのかわからないくらい不気味に映った。層雲を突き抜けて建つタワーとは対照的に、道路はあちこちが工事中で資材が乱雑に積まれていたし、人々はタンを吐き、街全体はクラクションに包まれていた。
東京は静かな街だ。

起きぬけにNHKをつけたら、NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」という番組が放送されていた。立場が特殊であるとはいえ、一人の人間があれだけのパブリックマインドをもち、かつ行動できるというのは、一般社会に生きる人々にはなかなかできることじゃないだろうなぁ、とベットの中で漠然と考えていた。あのような方が戦後日本の象徴であることは誇るべきことなのかもしれない。でもたとえば、イタリアでは意外に人気のあるベルルスコーニのような人が、たとえばそういった立場に就いたとしたらどうなの(ないだろうけど)。天皇機関説に基づく天皇への絶対的服従システムが消えた後、天皇は戦後的な何か(平和とか自由とか平等とか?)を象徴するようになったんだろうけど、かの人のパーソナリティーしだいで日本国民の「意思」って容易に変わって(変えられて)しまうんじゃないのかという危惧。一人の人格に立脚するシステムってどうなの。僕たちが成長しなければ、雪崩をうって変わる日が来る気がしなくもない、という気がした。そしてまた昼過ぎまで寝た。秋晴れのいい天気だった。

「人生に迷いを感じていないような奴は、頭がいいか、あるいはただの馬鹿かだよ。たいていの普通の人間は迷い続けて、小さく死ぬんだ。」なんて思っていたら、キリンジの「Drifter」の歌詞を思い出した。

いろんな人がいて いろんなことを言うよ 
「お金がすべてだぜ」と言い切れたなら
きっと迷いも失せる


そうだよな。
いろんな人がいていろんなことをいいすぎ。割り切れないことがおおすぎ。この世の中は複雑すぎ。自意識の中にすべてが収まるわけもなく。知的好奇心、コンプレックスの克服、愛、自己催眠、命令、宗教心、共同体的連帯、・・・?なぜこれを選択しなければならないのか。動機はどこからやってくるのか。いっそ馬鹿になりてぇ。


まぁいいや。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」 雑感メモ3_何かおかしいような


3回目を懲りもせず、ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破を見る@ミラノ。また拍手で終わるという、いまだにお祭り騒ぎでした。


でもしかし、ヱヴァンゲリヲン3回目ということで少し冷静にみると、これはあまりによく話が進みすぎではないか、などと邪推してしまうわけです。最後にカヲルの放つ槍の意味を、もっと重く受け取るべきなのかもしれないと思うわけです。ぽかぽかendなんてないんだよ^^。


「他人」の象徴だったアスカが早々にいなくなり、トウジパイロットとして選出されず、レイを救出し融合するなどなど、結局「破」はシンジの望む世界としての「やり直し」であり、一見成長したかのように見えるシンジの姿は、実は大いなる妄想にすぎないのではないか。(旧作では、結局アスカ(他者)と生きていくことを消極的に、あるいは仕方なく選択し(僕はそう思ったけど)、トウジは傷つき、レイも消失したわけで。)また、「YOU CAN ADVANCE.」 でいいものをわざわざ「(NOT)」とつけるあたりも、一見前進したかのように見えるのは、実は虚構にすぎないということを、暗に示しているかもしれない。旧作の記憶を残しているであろうカヲルが、槍で初号機を貫くことで、その妄想世界に待ったをかけているように見えなくもないんですよね。カヲル「妄想乙」。笑


大体、カヲルが前作の記憶があるらしいという設定からして、「破」という作品を、旧作と相対化して見ないわけにはいかない。今回の「破」もシンジにとっての可能性の一つに過ぎないのではないか。次回作が終わってみれば、再びLCLの海の中で漂うシンジがいる気がしてならないんですが。あるいは「EOE」と「序・破」、これらの世界を俯瞰するような、つまり今度こそ本当にループを脱するような、新たな世界=現実≒実写?が提示されるのではないか。って俺の妄想が止まらないという笑。