「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」雑感メモ2_「物語」はどこへゆく


今回は旧作との変更点が鮮明になった。加えて話の根幹の部分で大きく路線変更が行われているのを感じた。やはり様々な演出の変更は、サードインパクトを伴う「救済の物語」が大きく変更されていることに起因するのではないだろうか。ポイントは、たぶん「愛」。いわゆる「ぽかぽか」。パンフによれば商業的な理由による演出の変更もあるようだけど、結局エヴァ庵野監督の作家性が全面にでた物語である以上(少なくとも僕はそう思うけど)商業戦略に物語の根幹が左右されるとは考えににくい。


「救済の物語」としてヱヴァンゲリヲンを考えた場合、ゼーレの思惑と、ゲンドウの思惑が、旧劇と逆転しているように思われる部分が見られたのは気づいた人も多いだろうと思う。Mark.6(アダム)とリリスをよりしろとして真のエヴァンゲリオン(神)をつくろうとするゼーレと、初号機の覚醒とサードインパクトの予兆を目の前にして、あと少しだ・・、と呟くゲンドウは好対照的で、旧劇とは全くの逆転に思われてしまう。


それ以上に重要なのが、第三の極・物語の「破」壊者として、登場する真木波だ。この第三の極の関与により、一見ループの物語と見ることのできた新劇場版を、旧作から進化を決定的なものにするかもしれない。それを示唆しているのが、dat(カセットテープの再生機)のカウントだろう。序から盛んに25と26曲目をループしていたのが、シンジと真木波との接触後27へと数字が繰り上がる。
そしてこのdatが、シンジとゲンドウの関係を象徴しており、シンジの捨てたdatをレイが拾い上げることで、シンジとゲンドウの関係を積極的に好転させようとするレイの、能動的な姿勢を窺うことができるところも重要だ。レイからシンジに対する思いだけでなく、最終的には、シンジの「思い」一つで、神(進)化(≒覚醒)を遂げた点もおもしろい。レイと融合を果たす前から、初号機の頭上には光るリングが現れる。(このリングはカヲルの乗る六号機(月面のアダムにエヴァ仕様の装備を装着したもののようだが)にも見ることができ、さらにそういえば、ADAMS?にもみることができる。)でもなぜ。


このdatには、物語の破壊と進化、愛の物語の予感をにじませている。こういった小物の演出は、櫻井圭記氏の書いた「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」にみられる少佐の腕時計にまつわる演出に似ているなぁと思った。


アスカが「今日の日はさようなら」で、レイが「翼をください」であるのも意味深ですね。


今日の段階では監督の意図する物語の全容を推察するに至っていないで、たしかなことはまだわからない。しかしたとえば、旧作のように、どの極が想定する人類補完計画も破綻し、最終的にシンジの願いが具現化するとすれば、上記のことから察するにシンジとレイの「愛」、様々な意味で「愛」がカギになっていく気がしてならない。基本的に人は孤独だけど、アニメに浸って現実逃避しないで、ほらっ、しっかり他人と関わりながら現実を生きろよ・・・なっ?と突っ放して見せた旧劇EOEと比べると、本当にあり得ない展開だけど笑。前作の監督が結婚し、その幸せが反映されているのかも。世界は「ぽかぽか」で救われるのかもしれない。

ついに公開「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」公開前の思い

再びエヴァに自分を仮託して見ることのできる喜びを噛みしめながら、そしてそれ以上に、僕たちはエヴァを通じて再び何かを共有している、あるいは共有できるんだという感覚に、顔をほころばせずにはいられないでいる、そんなネットのざわめきがひしひしと伝わってくる。
ついに今日「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」が公開される。


1997年、小学生の時に初めてTVシリーズを見てから12年が経ち、僕は大学生になっている。当時大学生であった世代はもう30半ばになっている。時間の経過の割に僕は成長していない気がするし、もしかしたらきっと12年後もそんなふうに振り返ることになるかもしれない。


新宿バルト9、本日初回を予約し、チケットも手に入れてもらった。よくやるわ、とさめてみることもできるけど、少しばかり欲望の揺り籠で一人ゆっくりさせてもらおうかなと思う。


でも僕らは、再びエヴァに何を期待しているのだろうか。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」雑感メモ1_初回行ってきた


ヱヴァンゲリヲン。予想をはるかに超えた完成度に驚き、感動した。感動した。結局新宿に加えて、結局渋谷でも、計2回見てしまった。ああああああああああああああああああああああああ。


新宿、渋谷の両劇場でも上映終了後には、拍手が起こり非常に清々しかったのだが、特に初回の新宿では早朝という妙なテンションや、わざわざネット予約をし(そもそもこの初回の席を手に入れるためには2日前の午前0時からのネット予約をしなければならない)、土曜の朝早くから並ぶような人々の集まりであったせいであろう、終了後の拍手やざわめき、感嘆には一入のものがあった。自分も含め、みんな好きすぎるだろ笑。


そして、泣いた。第8使徒サハクィエル)との戦闘、アスカのケーブルカーでのミサトとの会話、三号機(第9使徒)と初号機の戦闘(虐殺)、ゼルエルvs弐号機(マリ)・零号機などには泣いた。ラストの初号機の演出は少し冷めたけど。


今回は旧作との変更点が鮮明になった。加えて話の根幹の部分で大きく路線変更が行われているのを感じた。いまだに監督の意図する物語が見えてこないので、たしかなことは言えないがあ、「破」るいは今後は、「愛」がカギになっていく気がしてならない。監督が結婚し、その幸せが反映されているのだろうか。どうなるんだろう。あと、ゼーレの思惑と、ゲンドウの思惑が、旧劇と逆転しているように思われる部分が見られた。シンジの願いはもっと大幅に変わっているようだけど。


70年代のヤマト、80年代のガンダム、90年代のエヴァと言われて久しいが、間違いなく00年代もまたヱヴァであり、きっと10年代もヱヴァと言われることになるんだろうな・・・笑。

ハルフウェイ / 北川悦吏子

そろそろ社会に復帰しなければいけないねー(精神的な意味で)などと思っているので、ちょっとでも戯言を書いて、リハビリとしようと思う。
ということで、今月公開の岩井俊二プロデュースの映画「ハルフウェイ」のtrailerを張り付けてみた。そもそも映画の存在を知ったのは、東京国際映画祭内の企画の一環として行われた岩井俊二トークショーであった。コバタケや北川らも同席していて、北川を中心に映画とってんだよと仄めかす場面があり、トークショウの終わりにビラを受け取ったというわけだ。北川が劣化版岩井俊二にならないように気をつけています、という趣旨の発言をしたのをよく覚えている。その言い含みから、同様に岩井プロデュースの映画「虹の女神」を意識していることはすぐにわかった笑。
中学生の頃に染みついた鮮烈な岩井映画の印象は、いまだにぬぐうことはできず(きっと無理)、岩井と名前の付くものには条件反射的に飛びついてしまうのはいささか病的である気がするが、でもどうしようもない。でもまぁ岩井の限界みたいな点もそれなりに分かっているつもりで、たとえば、花とアリスにおける芸能人のちょい出しだしなんかは、もともと映画用の脚本じゃなかったとはいえ、イタダケナイなぁなんて思うんだけども。いずれにせよ、ハルフウェイ期待。北乃きい期待。


http://halfway-movie.jp/


スカイ・クロラ

スカイ・クロラを見た。たしかにところどころやや冗長に感じるかもしれないが、非常によかった。
もともと森博嗣の「スカイ・クロラ」シリーズを原作として、脚本が書かれ映画化されたことを考えると、脚本に起こす段階で微妙になったのではという印象はたしかにある。冗長であること感じる理由は、おそらく主人公らの心象風景を映像に起こす試みによるんだろう。スカイ・クロラだけは以前に読んだことがあるが、緻密な機械描写と主人公の独白が印象的だった。機械に関する描写は、映画ではCGがふんだんに使われており、目まぐるしい展開と、時折のスローモーションを使い戦闘描写として表現されている。(機械整備士である笹倉には新たな役割が与えられていたので、意外だった。まさに「ママ」である。)個人的見どころは、随所にみられた「あの」独白や彼らのおかれている状況、それらをどのように表現するかだったが、押井監督はこれを表現しようと試みている部分が多くみられたし、僕自身はそのほとんどが成功しているように思える。
それは青い空に浮かぶ雲であり、人物の大きさやその所作であり、会話の少ない対話や、煙草や・ミートパイであった。終盤のミツヤのセリフや、エンドロール後のカンナミとスイト会話は、やや説明的すぎる気がしたが。カンナミは以前に機体を使用していた人物について執拗に探ろうとする。また、以前に食べたことがあるような味だ、というカンナミをトキノらはハハと笑う。そして、カンナミの持つ煙草の煙をいい匂いと口にするスイト。後半ではスイト自身も煙草を持っているはずなのに、カンナミに煙草を求めることが多くなる。スイトがティーチャーに撃墜され、重症に陥ったと思われた時も。煙草を重層的に用いることで、カンナミとスイトの関係を、その過去も含め象徴的に表している。
あとティーチャーね。"I kill my father"なんて言っちゃうあたり、少しだけ興ざめな感じがあった。「大人になれないんじゃなくて、ならない。」的なことを言っている割に、その大人の男を殺しに行くというのはどうなのよと。「いつも通る道だからって景色は同じじゃない。それだけじゃいけないのか。それだけのことだからいけないのか。」内からあふれる情動を抑えきれないという感じだ。カンナミはそんなに熱い男だったのか。
一方で、スイトへ向けられた言葉「君は生きろ、何かを変えられるまで。」を忘れてはならない。この言葉から透けて見えるのは、諦観であり自殺である。ティーチャーに空で出会ったら生きては帰れないのだ。さらにそう考えると、スイトの特異性が自然に浮かび上がってくる。彼女はティーチャーと対峙しても無傷で帰って来た。永遠のループを繰り返すかのような世界で、彼女だけは「自分や他人の運命に干渉する」ことにが可能であり、この世界を変える可能性を孕んでいるような存在として提示されている。
結局、永遠に繰り返されるであろう諦観、敗北のループを受け入れつつ、それでも挑戦し続け、いつか得られるかもしれない(得られないかもしれない、それはわからないが、たぶん得られない。)勝利、そのわずかばかりの希望をもって生きろといったことなのだろうか。メッセージとしては決してポジティブなものではないが、現代の若者にとって必要なのは、少なくとも元気はつらつオルナミンCではないと押井は考えたのだろう。
声優と音楽。主人公となる二人には違和感あるような、ないような。音楽もなんというか、いいんだけど、なんというか。ただミス・ハラウェイや谷原はさすがだ。

夏休み友人が家族でフィンランドへ旅行に行く。彼女はもう他に行きたい国がなかったのか、北欧的な音楽やらに惹かれたのか、所さんのダーツの旅・世界地図バージョン的なことをした結果なのか、いやたぶん白夜をみたいからだろうが、まぁとにかくフィンランドに行くそうだ。フィンランドの夏は涼しそうでうらやましい限りである。彼女にはフィンランドに行くなら、スウェーデン語を勉強するように勧めておいた。フィンランドは歴史的にスウェーデン領であったから、スウェーデン語も広く通じるはずだし、なによりスウェーデン語はインド・ヨーロッパ語族に属するからウラル語族に属するフィンランド語よりは学びやすいうえ、ノルウェーの一部でも通じるなど話者数が多いはずだからだ。もちろん彼女は変な顔をしていたし、もちろん冗談もつもりだ。英語が通じる。
たしかフィンランドは一年の半分が冬に分類され薄暗く、そして夏はわずか3か月ほどしかない。ヘルシンキのような比較的南にある都市はまだしも、北極圏に近い地域における暮らしはきっと楽なものではないだろう。ただ、夏の間は太陽が沈まない白夜という現象が起きる。白夜はきっと僕らで言うところの蝉や花火などの夏の象徴であり、長く厳しい冬が明けた後の3か月は、太陽に感謝せずにはいられないだろう。朝起きた時にちょうど夜が明けようと、陽の光が東の空でくすぶっている様子を見ると、僕は陽の光に感謝せずにはいられない。屋上に上って、そのわずかな奇跡的光景をいつまでも見ていたくなる。最近は5時前には陽が昇る。ただ、あまり日が高くなりすぎると暑くて死にそうになるので日中は自粛してもらいたいが。